今年1月から小笠原の父島で営農を始めた緒環暁二(おだまき・ぎょうじ)さんと桃世(ももよ)さん。お二人が営農へ至るまでの“ものがたり”を探ってみたら、暮らしや子育て、家族、生きる姿勢、お金をどう考えるかなど、全てつながっていました。
桃世さんは第二子出産のため一時的に大田区に引っ越してきました。5歳の長男・良吹(いぶき)くんが一時的に通っているのが、うちの小僧さんがお世話になっている保育園。
興味のままに根掘り葉掘り、楽しくインタビューさせていただきましたものをブログにてご紹介。お付き合いくださいませ。
心の稔りを求めて
―小笠原で営農を始めた緒環夫妻―
≪長男が生まれ、本気で農業について考えた≫
Endo(以下、太字はEndo) こんにちは。暁二さん桃世さん、次男・地慧(ちさと)くん誕生おめでとうございます。父島から大田区に駆け付けた暁二さん、今日は大切なお時間ありがとうございます。本当に素敵なお父さん。「営農ってどうやって始めたの? 小笠原ってどんなところ?」インタビュー形式でお二人にガツガツ聞かせていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。まずは農業を目指そうと思ったきっかけあたりからお伺いしたいと思うのですが。
暁二(以下暁) 長男の良吹(いぶき・5歳)が生まれたことが大きかった。この子にあげられるものは何か考えました。桃ちゃん(妻)が元々マクロビや無農薬野菜、玄米食に取り組んでいたこともあり、食について勉強してみた。そこで2冊の本に出会いました。赤峰勝人さんの「ニンジンから宇宙へ」と竹熊宜孝さんの著書「土からの教育―クマさんの養生説法」。食べるものが心を作るし、人間性を作る、病気もそこから出てくると書かれていた。そのあたりからですね。
保険のこともあったとか?
暁 同じ頃、保険に入ろうかと資料を取り寄せましたが非常に複雑。でも、病気にならない生き方をすればいいんですよね。そういうひらめきもありました。
食や農業に興味を持って、まず何をしましたか?
暁 僕はその頃、父島で自動車の整備士として会社勤めをしていました。同じ父島に「森本農園」というところがあって、週末にボランティアとして通ってみた。続くようなら本気で考えてみようと思った。
自分が住んでいる土地の近くで、お手本となり相談にのってくれる人を見つけ、実践してみるのが第一歩なのですね。
暁 それと同時に本土への移住を視野に動き始めました。良吹が2歳になった頃ですね。小笠原では稲作は難しいと言われていますが、やはり農業をするならお米を作りたかった。日本の文化ですから。それで年に一度の連休は本土へ渡り、自然農や有機栽培に取り組む農家で実際に農業を手伝わせてもらいました。
それは、暁二さんだけで?
暁 いえ、必ず家族皆で出かけました。家族の想いが同じでないと前に進ませんので。
とても大事なことですね。家族で生きていくんですもの。ところで、訪ねる先はどうやって見つけたのでしょう?
暁 ほとんどインターネットです。農園のホームページというより、誰かがブログで体験や評判を綴っているのを見つけて、直接電話で見学をお願いしました。最初の年は福島県川俣町の自然農場「やまなみ農場」にお世話になりました。オーナーの佐藤和夫さん、幸子さんご夫妻は「とにかく農業は大変だよ。でも本気でやれば、正しい道・信じる道を生きていればみのりはたくさんあるよ」と教えてくださいました。
物理的な意味の「実り」ではなく。
桃世(以下桃) 心の「稔り」。私もあの言葉は忘れられないな。
正しい道とはどういうことだったのでしょう?
暁 「今だけ」「金だけ」「自分だけ」ではない世界。そして、誰かを騙したり、争ったりしないで、自分もぶれないでやっていける道ということかな。
心に刻みたい言葉だわー!手帳に書いておこう。その後はどなたを訪ねたのですか?
暁 山形県の自然農家を訪ねた後、信州安曇野の舎爐夢(シャロム)ヒュッテに泊まりました。ここに福島県の飯館村で「なな色の空」を経営していた村上真平さんが偶然泊まっていたんです。シャロムの臼井健二さんと村上さんの会話がすごかった。村上さんは、例えば農業についてある話題が出たとして、それを奥深く掘り下げ哲学のレベルで語っていた。興味のある話がたくさん。この人についていきたい、直接学びたいと思いました。
想いを持って動き始めると色々な出会いがあるのですね。
暁 ですから2年目は、5月に村上さんを訪ねて飯館村に行きました。「なな色の空」は田んぼと畑、農家民宿、マクロビのレストラン経営もしていました。自分で設計して石釜を作り、石釜パンを焼いて直売所で売ったり、夏休みは子どもたちを集めての自然体験を企画したり。
知識を深く掘り下げるということと、農業それだけではなく、そこから広くつなげていくという実践があったということですね。
桃 目の前に広がる畑、田んぼ、虫やカエルの鳴き声、山や空、月や星の美しさ。そこで遊ぶわが子の姿も、小笠原とはまた違う、「生きている」と肌で感じられる空間だった。
暁 この年は11月に北海道岩見沢市の狩野農園を訪ねました。3年目も北海道。今度は3週間暮らしてみて、大規模農業の大変さを体感した。(広いので)畝一列分の雑草を取るのに一日かかる。ただ、あそこで食べたアスパラガスは本当に美味しかった。全然違った。オーナーさんが「適当に採って食べていいよー」と言ってくださったので、生で食べたり炒めたりして毎日食べたけれど、美味しくて飽きない。あの味は、僕のひとつのモノサシ。
桃 狩野さんの隣にバイオダイナミックの畑をしている半浦剛さんという方がいて、こちらで頂いたネギもとても力のある美味しいものでした。それだけでお味噌汁の主役になっちゃう。
実際に耕してみて食べてみて、有機やバイオダイナミックの力強さを体に叩き込んだ。
桃 時計ストーブというのがあってね。薪を焚いて、ストーブの上にお鍋を乗せてお料理するもので、北の方では普通にホームセンターで売っている。一日働いて、時計ストーブで焚いたご飯や野菜炒めがすごく美味しかった。本当に絶品でした。「やっぱりこれがいい!こういう暮らしがいい」と。
そうか!家族で色々な農家を回って、本当に求める生き方、暮らし方を探していたんですね?
桃 そうそう。それに3年かけました。色々なところへ行くたびに確信になっていった。
≪飯館村へ移住の決意と東日本大震災≫
一度は飯館村へ移住を決意されたと聞きました。
暁 北海道で3週間過ごした後、福島県に寄ってみた。飯館村への行き道、東北の田園風景が広がって「ああやっぱりこっちだ」と。
桃 木々の色や太陽の光加減などに「のんびりさ」や「やさしさ」を感じました。北海道は「厳しさ」「極寒」を感じてしまい、とくに母子はこの寒さはちょっとムリかもと・・・。季節も関係していたかもしれませんが。
暁 北海道はあまりに大きすぎて、そして風景が実は人工的だというのが、福島に行ってみて分かりました。村上さんを訪ねてお話しすると「共同で農業をする人を探しているので来ませんか」と誘っていただいたので、いよいよ気持ちが固まりました。
2011年4月から飯館村で暮らす予定だったのでしたね。
暁 今から思っても大きな決断だった。共同で農業をやるというのは、家族と家族の結婚ですよね。
そう聞くと本当にすごいこと。
暁 村上真平さんという、師とあおぐ人を見つけたこと。村や農園が魅力的だったこと。あらかじめ移住決断の期限を設けていたことも後押ししたと思います。
とても計画的に準備を進められたのですね。農業を始めたいと思ったら、師を見つけ、既存のコミュニティーに参加するのが現実的な方法なのでしょうね。
桃 「飯館村へ移住します」と先方へ返事してから8カ月くらいあって、いよいよ小笠原を離れるとなると見慣れていた風景が変わって見えてきたのね。思い出作りに積極的になりイベントに参加してみたり。
暁 これで最後と思ったら、小笠原が違って見えた(笑)。海ってこんなにきれいだったかなーなんて。でもね、結構背中を押してくれるんです、小笠原の人たちは。「やってみなよ!ダメだったら戻って来たらいいじゃない」みたいな。
送別会も終わり3月末の船に乗る予定だったところに、東日本大震災。
桃 荷詰めも終わって部屋中段ボールだらけ。3月11日は母島に渡って友人たちにお別れのあいさつをしていたら津波警報。テレビを見たら大変なことになっていた。
暁 その後福島第一原発事故による放射能汚染で飯館村は全村避難になり、村上さんに電話すると三重県伊賀市に避難されていた。さすがに頼って行くわけにはいかなかった。でも「こういう生き方をしたい」という思いは確信になっていたので「動けなかったということはここ(小笠原)でやれということ」と思いました。
飯館村はいまだ村民6000人以上が避難生活を強いられています。
暁 飯館村はそれはもう素晴らしい村でした。日本で最も美しい村に選ばれた村。村をあげてスローライフに取り組んでいました。「までいの力」という本があります。「までい」とは丁寧に、心をこめてということ。みんなで丁寧に村を作っていこうと取り組んできたのです。(※本の販売収益はすべて飯舘村の復興のために役立てられます。)
桃 冬にも行ってみたけれど、雪景色も本当にきれいだった。ニュースやドキュメンタリー番組、新聞で「飯館村」と耳にすると心が痛み、しばらくはそのたびに涙が出ていました。我が家はテレビのない生活をしていますが、それでも放射能のこと、飯館村のことは耳から目から入ってきた。暁二さんは淡々と現実を受け入れているように見えましたが、私自身が気持ちを整理するのには半年ほどかかりました。
暁 お世話になった川俣町の「やまなみ農場」も事故の影響で閉鎖になりました。奥さんの佐藤幸子さんは「子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク」の代表として活動されています。
心をこめて作られた村や農園のこと、美しい田園風景。これからもどうぞ出会った方々に伝えてください。原発がどれだけ大きなものを奪ったのか語り継ぐことになるのではないでしょうか?
≪会社を辞め本格的に農業に取り組む≫
「動けなかったということは、ここでやれということ」と。起こったことを受け止め受け入れるのも、パワーが要ります。小笠原で営農しようと決めてからどうしたのでしょう?
暁 実は母島の方が農業が盛んで、役所ではそちらを勧められました。でも母島では主に内地向けのパッションフルーツやミニトマトを作っている。僕は人口2000人の父島で、消費者の顔が見えるところで野菜を作りたかった。それでボランティアで通っていた「森本農園」のオーナーさんに相談しました。「まっきー(そう呼ばれています)が本気ならサポートするよ。技術と経営は私が教える」と言っていただいて。
具体的にはどういう形態でスタートしたのでしょう?
暁 オーナーさんのお力添えもあり土地を二か所借りることができました。「森本農園」で従業員として雇ってもらい一定の収入を得ながら、借りた土地で自分たちの野菜を育てています。今のところ葉ものを中心に、小松菜、かぶ、大根、水菜、のらぼう菜など。無農薬、無化学肥料が目標。営農となると現実に大変なこともあって、種は固定種だけというわけにいかずF1種も使います。
会社を辞めるというのは大きな決断でしたね?
暁 空っぽにしないと、次が入ってこないんだと思う。サラリーマン生活を手放した。手放したから「こいつは本気なのだ」と伝わって土地を借りることができた。自営業の友達がたくさんいてね。2011年いっぱいで会社を辞めて、新年になったら「ようこそこちらの世界へ」と言われましたね(笑)
桃 暁二さんが辞める少し前に、急にお金への執着ができてしまい「やっぱりお金って必要じゃん」とか「もう蓄えが増えるということはないんだなー」なんて思った。だから本当に辞めるという1カ月前には「これが最後の給料なんだーありがたいー」と泣きました。だけどいざ辞めたらふっきれた。今ある中で楽しくやろうっと。一把250円の小松菜が4つ売れた。1000円。嬉しい!
暁 10円とか100円の価値が全然違う。でもね、一日の中でいい時間がたくさんありますよ。お天道様の下で土をいじり、種をまき、収穫して、これ以上の幸せはない。収穫したものを家族で食べる幸せ。自分の好きなことをしている幸せ。
毎日家族で夕食を食べるのかしら?(つくづく、悲しい質問です)
桃 採れたての野菜をシンプルにお料理して、家族みんなで食べる。良吹も「お父さんが作った野菜おいしい!」とモリモリ食べてくれます。これが一番嬉しい。
羨ましいなあ。ところで、すでに出荷して島のスーパーに野菜が並んでいると伺いました。
暁 小笠原で売っている野菜は内地から船で運ばれてくるものが多く、最低でも二日間は経っています。島の新鮮な野菜はそれだけでも競争できるかなと思います。
桃 放射能を心配するお母さんも多いので、小笠原で作ったものなら安心と買ってもらえます。島のみんなはここに至った私たちの思いを知っているので「ももちゃんたちが決意したんだったら応援するよ!」って野菜を買ってくれます。本当にありがたいです。消費者の立場から一転し生産者にまわり、まだまだ試行錯誤が必要だし工夫やアイデアも出していかないといけないですね。
暁 桃ちゃんは良吹が産まれる前に島の植物で草木染めをしていたので、いずれは農業と草木染めとで生計をたてていきたい。そんな想い・願いを込めて屋号は『菜彩家(さいさいや)』としました。
素敵な屋号。いつか桃ちゃんの草木染めを見せていただくのも楽しみです。
≪“想い”が人をつなぐ島、小笠原≫
小笠原について聞かせてください。まずは単刀直入に、20年暮らしてみて島の一番の魅力はなんでしょう?
桃 実は昨年Tokyo walkerの取材を受けまして。「父島のパワースポットを教えてください」と。霊感なんてないし、分からないって断ったけれど「どの場所にいるのが好きですか?」と。それなら答えられますと。いろいろ考えたけれど、やっぱり海。海を見ると「まいっか」という気分になれる。この海が、小笠原の島にパワーをくれているのだと思います。
「まいっか」という気分になれる場所。パワーをくれる場所。東京で暮らしているとなかなか・・・。ところでお二人はどのような経緯で小笠原へ移住したのですか?
桃 移住したのは約20年前。元々は内地の日本動物植物専門学校海洋生物科(今はありません)に通い、イルカの調教師を目指していました。が、水族館などで実習するうちに「飼育されているイルカより野生のイルカやザトウクジラに会いたい」という気持ちになった。父島にある「小笠原海洋センター」にザトウクジラ調査ボランティアとして来たのがこの島との出会いです。ここだ!と移住を決意。その後同センターでアオウミガメの調査ボランティアや他海洋調査補助をしながら、アルバイトから職員となり、約6年スタッフとして働いていました。
移住しやすい風土なのかな?
桃 私の感覚では伊豆七島は明るさが足りない。沖縄は明るいけれど、いざ移住するとなると外の者が入っていきにくい。小笠原は明るいうえに、あっけらかんと人を受け入れる風土があった。第二次大戦でアメリカ領になったことが大きいのかも。人が(再び)暮らしはじめたのは1968年に返還されてから。40年そこそこの新しい島なんです。平均年齢39歳、子どももたくさんいる若い島です。出ていく人たちも快く送り出します。
暁二さんは何故小笠原へ?
暁 17年前に23歳で来ました。東京で自動車の整備士をしていましたが、たくさんの人の中にいるのが疲れた。小笠原って飛行場もない。東京から船で24時間。そういう場所はそうそう人が来ないだろうと。一度友人と遊びに行って、ここに住もうと思った。東京に戻って、会社にも両親にも「小笠原で仕事が決まった」と嘘をついて移住してしまいました。
ある意味、二人とも人生の大ジャンプを一度は経験済みだった!
桃 小笠原に移住してきた人たちはお互いに、この果ての島へ決意して渡ってきたという気持ちがある。口には出さないけれど、なんとなくそういう意識でつながっていると思うな。
新しい島だから、歴史や文化というよりも“想い”が人をつなげているのかも。
桃 3.11をきっかけに父島のお母さんたちの間でONE WAVEという会が発足しました。内地から離れている分情報があいまいで、放射能についての勉強会をしたり、災害地支援フリーマーケットを開いたり。時々真面目なお茶会をしつつ、情報交換の場としてつながっています。ONE WAVEは私にとっても大きな力となりました。「父島で頑張ってみよう」と心を入れ替えられたのも、みんなと話し自分の思いをアウトプットできたから。
やはりコミュニティーの繋がりが強い。島ということで、限られた資源でエコな暮らしをしているのかなとイメージします。
暁 僕が従業員として働いている「森本農園」の農業は本当にエコですよ。鶏を100羽くらい飼っていて“生ごみ処理機”として大活躍している。飲食店で出た生ごみ。豆腐屋のおからは米ぬかと混ぜて発酵させる。アルファ米の古くなったもの。全てもらってくる。合鴨やガチョウ、シチメンチョウもいる。彼らが食べて、糞が畑の肥料。しかも、鶏も野菜も本当に美味しい。でも、生ごみ集めなどは実はかなり大変ですよ。オーナーさんはいつも「エコ=お金を使わず手間をかけること」と言っています。
桃 一方で小笠原は内地への物資依存がすごい。食料も生活用品もほとんどが内地から運ばれてきます。電気はディーゼルで発電、東京から燃油を運んでくる。ガスはプロパンで運ばれてきます。食糧自給率はすごく低い。身土不二という言葉から離れて生活している。
暁 本土で何か起こったら、まず忘れ去られるのが小笠原と思っておいた方がいい。だから次の船が来るまで何とかして生き延びなくてはならないし、そういう力が必要。生活の中で電気は極力使わない。ご飯は圧力鍋で炊いておひつに移す。
おひつって憧れだけど、ご飯が冷たくなってしいます・・・。
桃 蒸すか、冷めたままよく噛んで食べる。他の料理が温かければ気にならないですよ。「こうでなければ」「~せねば」と「ねばねば」の生き方が暮らしにくくさせているから、気にしないで生きる!
暁 鶏肉は「森本農園」の鶏を僕が絞めます。良吹にも見せます。魚は友人からもらってきて下ろす。それをしないと食べられない、ということを見せるわけです。
桃 自分たちで絞めて「命をいただく」ということを感じながら食べる。
良吹くんの反応はどうでしたか?
暁 可愛そうだから全部食べるのだそうです。徹底的にきれいに食べるようになった。
力があるなあ。先日うちの小僧さんに50センチくらいのスズキを見せたら「コワイ」って逃げました(笑)
≪子どもたちに伝えたいこと≫
農業を目指すきっかけは、良吹くんが産まれたこと。3月にまた、新しい命が誕生しました。心からおめでとうございます。彼らに伝えたいこととは、なんでしょう?
暁 本気で農業を始めてみると、自分は今まで真剣に生きていなかったと気付いた。親がどう生きているかが大事。子どもは、親が本気で生きているかどうかをちゃんと見ています。だから、こういう決断をできたことが大きい。失敗するかもしれないし、失敗してもいいと思う。
桃 子どもたちに希望を持つ前に、自分がしっかりしないと。大人がいい波動を出していかないと、子どもが良くなるはずはないですよね。
暁 田んぼと小さな土地があれば、生き方と、食べることに困らない方法を伝えてあげられる。本当の生きる力を継承していけたらいい。それはお金ではない。いずれお金は価値を失うし、世の中は混沌としていくだろう。今の、収奪するしくみ、資本主義というのは立ち行かない。だからまず、自分から生き方を変えていく。楽しく、正しい道でやっていく。そういう背中を見せたいです。
桃 それから、なんでも子どもに相談するし、勝手に決めたり事後報告はしない。決まったことはきちんと伝えています。これもとても大事。
たくさんのお話をありがとうございました。
私がいつも「園長小噺」でご紹介させていただいている大田区の保育園。桃ちゃんは良吹くんを通わせてみて「(年長の)この一年だけここに行かせたいな」とちょっとだけ思ったのだそうです。園長先生は「年長の一年で保育園で伸びるよー」と話しつつ、やはり家族が一緒にいることは重要とのご意見。「それに良吹はどこででもちゃんと育つよ」と仰ったと聞きました。お二人の生きる姿勢を知って「ああそうだな」とすとんと思いました。
営農に踏み切るまでの長い過程の中で、お二人の中にゆるぎないものができあがった。そういうことを感じるインタビューでした。
もうひとつ。お二人には考えを深める時間があったのだろうなと想像します。島や田舎で暮らすということは、そういう時間を得るということでもある。それが人間の本来の状態なのではないかと思います。