先日の沖縄旅行でのこと。
屋我地島の果てのバス停で出発を待つ間、運転手さんとお話しする時間がありました。
「15年ほど前によく沖縄へ来ていたのですが、あの頃と少し変わったなあという感じがします。もう少しのんびりしていたような気がします」。
「そうね、みんな前よりキビキビしているよー。酒飲みも減ったよ」。
「なんくるないさー(なんとかなるさ)でなくなってきたのね」。
「なんとかならないって、みんな分かったんですよ。時間を守るようになったねー。昔は7時から会合っていったら8時に集まったけど、今は6時半に集まっていますよ」。
それから彼はふっとつぶやきました。
「何かに縛られているみたい」。
エンジンがかかり、バスは私たち3人だけを乗せ定刻に出発しました。
窓の外では南国の大きな葉っぱがゆらゆら揺れています。その向こう、古い琉球瓦の上からシーサーがこちらを見ています。
「何かに縛られているみたい」という言葉を、何度も思い返してみました。
そう、このおじさんは「何かに縛られていない感じ」を、知っていたのだな。するするっと、実感を込めて言葉が出てきたのでしょう。
沖縄の風や、強い日差しや、海、そして長い時の流れの中で育まれてきたものが、時折こうして顔をのぞかせてくれます。
まことに勝手ながら、そういう奥行きのようなものを失わないでほしいなと願ってしまいます。
広大な米軍基地を抱えたまま、沖縄本土復帰40年です。
今、日本中が3.11への想いを共有するように、5.15や6.23も私たちと深く関わりのある日です。