「ない」ってことは
「ある」を創りだそうとさせる
よい状態だと気づく。
「ない」はある意味とても幸せだ。
たとえばTVもラジオも流れて「ない」、
音のなる本を持って「ない」から
娘たちはよく歌う。よく踊る。
自分たちで創り出すしかないのだ。
一方、絵本はとてもたくさん「ある」ので
けっこう粗末に扱うし
ありがたみを感じていないふしがある。
といっても、既製品の娯楽が少「ない」からか
絵本の暗記力や
読んだことのない絵本を見ながら
勝手にストーリーをつけるようなことは
得意なようだ。
TVがないというと
ごはんを作る間とかどうしてるんですか!と
聞かれることもあるのだけど、
こどもたちはこどもたちの世界に
没頭して遊んでいて
(ふたりで遊んでいるときもあるし、
それぞれがひとりの世界にいるときもある)、
かまって〜と来ることはほぼない。
長女、次女と暮らしてきていて
それで困ったことは数えるくらいかと思う。
やっぱりこどもって
大人が思う以上にすごいのだ。
何かに依存しなくても創りだしていける
力と知恵があるのだ。
あとは大人の勇気かなと思う。
「ある」もいけれど
「ない」もなかなかいいですよ。
たとえば大人だって
炊飯器、電子レンジ、電気ポット、
この3つはなくても全然OK。
何より、
「ない」方が料理が美味しくなった。
とは言っても、
こども自身は音のなる絵本に憧れているし、
お友だちが歌うTVの曲を必死で覚えて
うちで張り切って歌ったりもしているから
「ない」ことが幸せと思っているかどうか…。
さて現実力の話。
最近、長女は自発的に、朝ごはんに飲む
野菜ジュースを作ってくれる。
果物、野菜の皮むきもひとりで全部する。
大人がいなくてもマイ包丁を片手に
試行錯誤してやっているようだ。
その間に私は別の家事ができるし、大助かり。
彼女は週末に朝ごはんをひとりで
すべて作りたいんだそうだ。
夢の世界ばかりでなく
現実世界を生き抜くチカラは
保育園で育ててもらっているなぁと改めて感謝。
こちら、
細かく細かく手をいれたらしい
林檎の皮むきあと。