友人がSNSでアップしていたことに思う。
最近は小学校の卒業文集も親が最終チェックするらしい。
友人は文集が配られたときに見るのを楽しみにしたいから、
今は見たくないと印鑑だけ押して提出をした。
お子さんはママがあえて見ないでいることを知っている。
最後の保護者会のときにも再び
原稿をチェックしてください、と机の上に
原稿が乗っていたそうだ。
先生に正直に自分の気持ちを話した友人。
先生は理解してくれたそうだ。
でも「漢字の間違いとかも大丈夫ですか?」と。
彼女はSNSの投稿をこう締めくくっていた。
「漢字の間違いも含めて
その時の我が子という事でいいじゃないですか。
多分たくさん間違えているんだろうけどね」。
とてもいいお母さんだなぁと思った。
なんだか感動したのだ。
こどもの間違えはこどもの間違え。
親はそれを見守ればいい。
愛おしいと思えばいい。
そこで親が見栄をはる必要もないと思う。
いつから人は、間違いが「嫌」になってしまったんだろう。
「悪」になってしまったんだろう。
文章を書くことを教えているある現場で、
Aさんが、自分と同じ世代に向けて書いた原稿を
世代の違うBさんが、この内容は不必要だからと判断し
勝手に書き換えられるということがあった。
まとめ部分もわかりづらいと手を入れられていた
(この原稿はとある媒体に掲載予定である)。
Bさんもよかれと思ってした行為だろう。
媒体を発行する立場もあってのことだ。
それはわかる。
ただ、Aさんの原稿をずっと見ていたのは私。
取材に立ち会ったから
取材相手の気持ちも聞いた上で
忙しい合間にAさんなりの努力して書きあげたのも
私は知っている。
ちなみにこのAさんは文章のプロではない。
でもその立場で書く文章だというのが
魅力でありおもしろさであり。
読者の方もそれはわかって読むはずの媒体である。
冒頭の話に戻る。
先ほどの小学校の話と同じことが
起こっているなぁと思ったのだ。
もちろんAさんのケースの場合は
誤字脱字は基本的には避けるし、直す。
が。
違う世代の取材もしていない人が
なんとなく書き換えた文章よりも、
Aさんが”Aさんの今”で一生懸命書いたものが
ずっとずっといいんじゃないかと思うのは
私だけだろうか。
世の中一般のうまいへたではなくて、
気持ちや勢いや、はたまたちょっと混沌として
わかりづらい感じだって
そのままの方がずっと面白いし、
大切にしたいよーと感じるのだ。
ちょっとぐらいわかりづらい箇所があったとしても
最後まで自分で書きあげて掲載にいたる
自信や喜びが人を育てる。
掲載されたときに何か感じることがあったら
それはその人の学びになる。
これが勉強なのではないかな。
学ぶ喜びってこういうことじゃないかな。
勝手に文章を書き換えられてしまうことで
得ることってなんだろう。
ああ、こう書くのが正解なのね
(文章に正解ってある?)。
もう書き換えられたくない、
失敗したくないから
誰かの文章の真似をすればいいのか
(ここで表現の自由が失われる)。
人によっては自信をなくして、
もう文章を書きたくないと思ってしまう可能性だって
あるんだってこと。
*販売している本や雑誌はまた別の話である。
間違えたり、失敗したり、
成功したり、やり遂げたり、感動したり、
誰かに褒められたりしたりことの方が
ずっとずっと生きるチカラになる。
体験こそがチカラになる。
このチカラになる勉強を若者に!こどもたちに!
と切に願う。