映画「ビラルの世界」を観ました。
これは、インドのカルカッタで盲目の両親と暮らす3歳の男の子、ビラルを追いかけたドキュメンタリー映画。
貧困、絶望と隣り合わせの暮らしの中で、ビラルがとにかくすごい生命力を放っていて、このことに驚き、魅了され、考えさせられる映画でした。
盲目のお父さんは、借金を抱えて失業中。
盲目のお母さんは生活を嘆いてばかりで、三人目の子どもを妊娠すると堕胎してしまいます。
一家四人(小さな弟がいます)は、カルカッタの路地裏の、暗くて狭くて不衛生な(多分)一つ部屋で暮らしていて、親戚に助けられてやっと食い繋いでいるという状況。
クソミソな生活の中で、ビラルはいたずらをしたり、雨の中へ駆けだしたり、勉強しなかったり、小さな弟を殴ったり。そのたびに、お父さんに殴られるシーンが・・・。
ところが、ビラルの瞳はいつも輝いていて、生命のゴムまりがはずんでいるみたいなのです。
この力はどこから来るのでしょう? これは、「何がどうであれ、生きて行かなくちゃいけない」という状況下で発揮されるパワーなのではないかしら。
人類が連綿とやってきたことは、実はこっちの方が近いのではないか?
きっと人類は、飢えや病気や自然災害と隣り合わせで、厳しい環境を生き抜いていた時間の方が長いですよね。いえいえ、今の地球上でも、そういう人たちの方がはるかに多いはず。そこにグローバリズムの搾取も入ってきていて、ものごとはもっとずっと複雑ですが。
「何がどうであれ、生きて行かなくちゃいけない」というぎりぎりの営みの中で、祭りがあり祈りがあり、誕生日のバカ騒ぎがあります。人間にとって何故こういうことが必要だったのか、納得できてしまいます。
そういう世界では、親子の繋がりもまた全然違うもののようで、きめ細やかに気持ちをくみとり、愛情をたっぷり注いで育てるのとは違って、もっと動物的でストレート。貧民街のジャングルを「親子共に生きのびていく」という感じがピッタリします。
生きて行くために細かいことはかまっていられない。当然、過度に溺愛している暇なんてないけれど、とにかく狭い部屋で肌触れ合って長い時間を一緒に生きているから、ちゃんと気持ちが通じ合っているし、ある意味私たちよりずっと濃密な関係になっているのがまた考えさせられるところです。
自分の子育てを振り返りつつ、「人間は本来はこうだったのだろうなあ」と思うことがたくさんある映画でした。
と連綿と書いてきましたが、実は最初にビラルを見て「あ、これはうちの小僧さんだ!」と思ったのでした。それは、自分の意志だけで思うところへ一目散に走っていく姿が重なったから。心の底から湧き出す「こうしたい」という気持ちと、行動がダイレクトにつながっているところは、同じだなあと。
つくづく、子ども自身が持つ力というものがあると思いました。そこをいっぱい信じて受け入れて、これからも小僧さんを見守りたいなと、改めて考えたのでした。