日々の泡

2012年9月19日 / 日々の泡

KAMIの教え

とある出来事があって、

どうにも気になって仕方なくて、ずいぶん時間と労力をかけて、それについて考えた。

何が問題なのか、なぜ起こったのか、事実は何か、問題の本質は何か、敵、味方はいるのか、どう解決したいのか、「本当のこと」は何なのか…。

その一連の作業は自分一人でやったのではなくて、複数の当事者と、数人の人間を相談役として巻き込んだ。

結果的には、どこにも敵はいなかったし、それどころか全員が仲間で身内で自分自身で、それぞれが考え、合意を持って解決に至った。

私がこの出来事を見過ごせなかった理由のひとつは、わたしが避難者であること、これからここで何をしたいのか、そのことに直結した問題だったから。

もうひとつは、それはとても個人的なことなんだけれど、この出来事の舞台が「香美(KAMI)」という土地だったことだ。

どうも見過ごせない、気になる、関わらずにいられない、引き寄せられる、そのもろもろはどうもこの土地にあるみたい。

そもそもが高知へやってきたのも…。

ちなみに、前回の日記にでてきた物部という土地も香美市にある。

 

話しはもどって、合意を得るための「話し合い」を控え、わたしは髪を切った。

ずーっと伸ばしっぱなしで切りたかった髪(KAMI)。

引っ越してきて2回目の美容院だけど、行く店は最初から決まっている。

そして話しを聞けば、美容師である彼女の住まいも香美市だとか。

髪の毛を切ってもらってとてもさっぱりして気が楽になって、それを伝えると彼女は言った。

「そう、髪には“想い”がつくからね、ここまで長いと特にね。力を抜いてね。鉄板のように固い意志で何かをすることも時には大事だけど、

目の前にあることをひとつひとつを積み重ねていくことが大事。そうするとおのずと結果はついてくるし、ちゃんと必要な人や物が現れる。」

ううう、今のわたしにぴったりのメッセージをありがとう。

何も詳しく話してないのにと驚いた、けど、驚かない。

人は思っている以上に、言葉や目に見えるものを超えたところでコンタクトしているからね。

 

さて、そうして髪を切り、40分のドライブをして香美市へ向かい、無事「話し合い」を持って、円満解決&一件落着したわけだけど、実は後日談があって、この出来事をきっかけに、思考がずんずんと一人歩きをはじめ、ごくごく個人的な心の奥の方まで進んでいって、とうとうひとつの扉を開けたようなそんな体験をした。

今わたしはその扉を開き、その一歩を歩き始めたところで、これからどんな出来事や風景に出会えるのか、密かにわくわくしている。

考え続ける先にあるもの、それは全て「もう自分がすでに知っていたこと」だった。ありふれてさえいた。

でも、頭で「知っていた」ことをからだで「分かった」ような、そんな感覚。で、それは快感でもある。

 

その、香美市という土地に縁があって何度か足を運んで思ったことは、中央と地方、都会と田舎とか郊外とかいった視点にはない本当の豊かさ、水があり、山があり、風が吹き、畑を耕し、食べるために商売をして、子どもを育て、土地とつながって生きていく、地元の神様に手をあわせる、そうした本来の人の営みがあるということだ。

 

3.11が起きて、1年半。

原発NO,再稼働NO,瓦礫広域処理NO,被ばくNO,TPP NO,ACTA NO,オスプレイNO,増税NO,何より避難させず保障せず何ら責任を取らずにいる政府と東電にNO!だ。

すべての子どもを被ばくさせたくない。

でも、NO!を言い続けるのはしんどい。

デモだって、太鼓叩いて音楽やリズムに乗るから続けられる。

彼らの戦略通りだ。否定や対立をしながら声を上げ続けるなんてできないよ。

それにもう時間がない。

わたしたちは肯定したい。自分たちの生き方を。子どもの命を。自然を。

 

国が国民を守っているんじゃない、国民が国を守っているんだ。

大人が子どもを守っているんじゃない、子どもが大人を守っているんだ。

人間が自然を守っているんじゃない、自然が人間を守っているんだ。

弱いものほど支配しようとする。力を誇示しようとする。

おそらく、人間という種が核とともに滅びようが、地球にとったらちょっとしたクシャミみたいなものだと思う。

いや、しゃっくり程度かもしれない。

皮肉な話しだけれど、チェルノブイリにしても福島原発事故にしても、大量の放射性物質が自然界に降り注ぎ、それ相応の被害はもちろんあるけれど、もし人間がいなければ(放射性物質の付着した土地をただただ放置さえすれば)自然はずっと早くそれを回復させる力があるそうだ。

 

自分ひとりができることなんて、ほんの些細なこと。

でも自分という存在は思っている以上にただ生きるだけで「伝播」している。

考えること、考え続けること、ひたすら「日々を生きる」こと。

あれ、ここに行き着いた。では、今日はおしまい。