今、会いたい人

ひむか村の宝箱 代表

池辺宜子さん

 

“肩書きのない人生”の魅力を探ります

 

 

宮崎人が愛する伝説の人物。

「改めましてよろしくお願いします」。名刺交換から始まった今回の取材。「あら、同じね。私も名刺になんにも書いてないの」と池辺宜子さん。本当だ、池辺さんの名刺には肩書きがありません。今までずっと何になりたい、これになりたい、と思ったことがないのだそうです。そうやって等身大の自分で生きてきたら、まわりの人が彼女を放っておきませんでした。ショップの運営、アートプロジェクト、命を祝うハッピーベル・プロジェクトや森のこども園の企画運営、この春、大学生になる男の子の母、その他たくさん。地域と人と地球に関わる活動を進めています。穏やかな笑顔、やさしい語り口、年下から見てもチャーミング過ぎるキャラクター、アートや伝統、環境などさまざまな方面への深い知識、そして人と人を一瞬で繋げてしまう見えない糊もお持ち。その自然体な生き方は、今の私たちにとって気づきのヒントになるに違いない! そう思って、今回は宮崎在住以外の方はご存知ないであろう、あるお母さん、池辺宣子さんをご紹介いたします。人が好きで、生きることが好きで、住んでいる土地を好きでいたら、もっと人生は楽しくて可能性に満ちているのかも知れません。さて、彼女の魅力と子育て語録を紐解いていきましょうか。

 

 

 

“子育て”ってなんだろう。

 

宮崎県に生まれた池辺さんは銀行員のお父さん、お母さんと3歳年下の弟さんとの4人家族。「母はね、こどもが試験勉強をしていようと全く気にせず遊びに誘ってくるような人。いわゆる『教育』をしない人だったのね。勉強しなさいって言われたことはなかったと思うわ」。でも草花の名前はたくさん知っていて、愛犬がお腹を壊しているとなれば、自分だけ食べては申し訳ないと自身も食事を控えてヨロヨロしているようなやさしい方だったそう。お母さんはお嫁入り前、つまり昭和30年代からイトオテルミー(*1)を愛用。自然療法を取り入れた生活を送っていたと言います。「テルミーはすべての病に効く万能な”お手当“だと思うのよ。具合が悪い=病院ではなく、まず母の手で手当してくれたことは、こども心にとってもうれしかったわ」と語ります。

 

33歳のときに、池辺さん自身もお母さんになりました。「こどもをもったことは、今まで生きてきた世界とは別の世界に突然連れていかれたような感覚でした。その瞬間、入っていなかったスイッチがポンッと入ったのよね」。何を見ても見方が違う、変わる。何もかもが新鮮で大事になったのだといいます。「欧米は小さなときから、自立、個人、の文化だけれど、私たち日本人は元々、モンゴロイドでしょう。モンゴロイドの生き方が本来はあっていると思うの。だから私は“村”のような環境でこどもを見合っていたいと思ってきました」と語ります。別名、カバの子育て。カバは群れで生活していて、お母さんたちが交代でこどもたちを見守る生き物。池辺さんも自分の子も他人の子も関係なく、同じように大切なこどもたちと思って接してきたのだそう。「息子が幼稚園の頃は毎週水曜日の午後、同級生を誘って綾町の川のような自然の中へ探検に行ったりね。小学校のときには自宅に同級生をずらっと集めて、さぁ今日はここへ遊びに行こう!おもしろい映画があるからみんなで行こう!というふうにね。でも、今になってもっと息子とふたりだけの時間があってもよかったんじゃないかと思うようになったわ。息子にもっとああしてあげればよかったって思うことがたくさん。今更なんだけど」と語ります。この春から宮崎と京都と離れて暮らす母と息子。だからこそ募る想いもあるのかも知れません。

 

「小さな頃、救急車の音を聞いた息子が『オーレーオーレー』と言ったの。それを聞いて、私はじっくり彼の感性を味わったわ。彼の頭のなかを想像して、その不思議を楽しんだの」。「ピーポーピーポーでしょ」と修正したり、「違うわよ」と否定もしないのが池辺母さん。「ある方に教わったのはね、こどもに対して『ねばならい』ではなく、『思いを議論せず』、つまり“不思議”という気持ちを持つとうこと。彼のなかで音の持つイメージ、それは水色だったり、桃色だったり。自分の世界があるのよね。その不思議はそのままにしてあげたい」と言います。こどもの感性をそのまま受け止めてくれる親! 自分がこどもだとしたら、なんとうれしいことでしょう! 感性、もの、なんにでも愛情をかけることが大事。急かすのではなく待つことが大事。たとえばただの石ころでも毎日毎日撫でて1年経ったら…。そうやってこどもと向き合っててきたのだそう。「親としてできることは、香り、色、手触り、温もり…、幼児期にできるだけたくさんものを見せて感じさせてあげること。いかに“背骨”を作ってあげられるかだと思うの。そこから肉付けして形にしていくのは親じゃなくて、こども自身。だから“育児”“子育て”をさせていただきます、なんておこがましくて言えないわね」と語ります。そうか、こどもも親もひとりの人間。お互いに育ち合うのであって、“子育て”などと言ってどちらかが優位に立って支配するのは、なんだかおかしいのかも知れません。そして“こどもの背骨”。ここが骨太で密度の濃いものならば、人は揺らぐことがないのだと気づかされます。

 

 

自分の背骨はなんだろう。

 

今まで、考えたことがありますか? 自分の軸になっているものはなんなのか。背骨はなんなのか。その一片は、ずっと好きな本、少女時代に読んだ本にあるようです。「中学高校時代はまさに本漬けの日々だったわね。あらゆるジャンルの本に夢中になるなかでゲーテに出会ったの。こどもを産んでからは、シュタイナーやミヒャエル・エンデに夢中になりました。それでね、自分の好きな作家をよく考えてみたら、ゲーテ、エレン・ケイ、エルサ・ベスコフ、シュタイナーやミヒャエル・エンデ、羽仁もと子さん、というふうに、一筋の線になっていたの」。一筋の線とは、実はそれぞれが影響を受けた人々だということ。スウェーデンの思想家・エレン・ケイは絵本作家・ベスコフに多大な影響を与え、シュタイナーはベスコフの本を読み、という風に。池辺さんは語ります。「これは絶対に間違いないと思うの。少女時代に出会った哲学、思想はそうそう変わらないものなのよね。ゲーテのように種を撒いた人がいて、そこから絵本、小説、映画、漫画、絵画などあらゆるものに影響していく。要はそこから何を抜き取るか。意外と、私たちはこどものときから哲学を、思想を、反芻する旅に出ているのかも知れないわ」と。

 

さて、こどもの背骨について。“北の太宰治、南の中村地平”と言われた宮崎出身の作家、中村地平さんの民話集『河童の遠征』(鉱脈社刊)に2003年、池辺さんは出会いました。そのとき「ああ!やっとこどもにあげられる背骨を見つけた!」と思ったと言います。宮崎を舞台にした昭和19年に出版されたこの民話集を、仲間とともに再版へと導きました。「『親へび子へび』という民話は、日向の地の焼き畑と親子へびを描いた物語。これを読んで初めて、今まではただの焼き畑という現象としてしか見られなかったものが、その背景に想いを馳せるようになるのよね。それは風土となり、物語なるの」。そうして宮崎のこどもたちが、自分の住む土地に自信と誇りを持つことができる、住んでいる場所への想いがあると世界に堂々と羽ばたくことができる、そう池辺さんは確信しています。「お金ではなく、最後に残るのはやっぱり言葉。美しい言葉、文章に出会うことは私たちにとって本当に大切なこと」と。小さな頃から美しい文章の絵本や小説に出会わせてあげること、それも両親の大事な役割。

 

未来のために。

 

肩書きをつくらない池辺さんですが、「ライフワークは宮崎」と断言します。短大に入るときに上京、卒業後は着物学校に通って反物を縫いながら寮生活。短大時代の友人たちの華やかな遊び、全国から集まった着物学校の同級生たちの慎ましい生活、どちらが幸せなんだろうと考えながら生活を送ります。6年後、宮崎に帰郷。「海が、山が、なにもかもが素晴らしくて、なんて贅沢なの!なんてすごいの!宮崎は!」と改めて見た故郷に心から感動。その瞬間から宮崎をライフワークにしようと自然に決めたのだそうです。

 

その活動は、映画祭の開催や宮崎のアーティストのよる「フラクタス展」などなど。代表を務める、県立平和台公園内にある「ひむか村の宝箱」も然り。ここは単なるお店ではなく、宮崎の過去と現在と未来が交錯する不思議な場所。宮崎の伝えたいものや作家と買い手の架け橋でもあり、またワークショップや講演会などを開くなど学び、遊び、楽しみを伝えていく場でもあります。

 

この688000㎡にも及ぶ自然豊かな平和台公園をフィールドにした活動がもうひとつ、昨年から始まりました。“森のこども園”です。3.11を受けて「自分になにができるか」と考えたときに生まれたそうです。平和台の森を舞台に、こどもと森をアートで繋ぐ機会として毎月3日に開催。「4月にたまたま講師としてお話する機会があって、そのときに、支援も助成金もないけれどとにかく来月から始めます、と言ったんです。東北のお母さんとこどもたちを想いながら、まずは身近にいる宮崎のお母さん、こどもがよりよい教養を持てたら、きっと100年後の日本は何かが変わっているかも知れないと思ったから。私が出会った芸術家の方に関わっていただきながら毎月テーマを変えて開催しています」。このルーツは、宮崎出身の作家、中村地平さんが戦後、宮崎神宮の森に開いていた日向女子自由学園にあるそう。自由学園は女性がよりよい教養を持つことがよい素晴らしいこどもたちが育つことだ、として音楽家、詩人、絵描きなどを招いてサロンを開いていたところ。「そろそろ森をこどもたちに還したい。宮崎には豊かな森がたくさんあります。私はここ平和台の森にいさせていただいて、こどもたちと森を感じて森で育っていきたいんです」。こどもを持った母親は、こどもとともに学び成長する機会を与えられます。今、池辺さんが一番夢中になる活動、それが “こどもと森をアートで繋ぐ” 森のこども園なのです。

 

池辺さん、実は過去に流産を経験されています。最愛のお母さんが病に倒れたのも重なったその悲しみの中、救急車のサイレンの音を聞いて思いついたものがあります。それが「ハッピーベル・プロジェクト」。甲高いサイレン、車のクラクションなど日常に溢れる心を固くする音ではなくて、世の中に幸せを知らせる音色が響いたらどんなに素敵なのだろう! そう思ったのだそうです。その幸せとは、新しい命の誕生を知らせるもの。赤ちゃんが生まれた!と知らせる鐘の音を自分の住む土地に響かせたい。生命喜び、尊さを分かち合える今だからこそ、平和台の丘の上にハッピーベルがあったらーーその想いから、プロジェクトが始まりました。「賛成、反対、いろんな声があるけれど、きっとすべての人に愛される音色がこの世のどこかにあるんじゃないかと思って、今はその音色を探す旅の最中なのかも知れません」と池辺さん。今、ひむか村の宝箱にあるベルは仮の鐘(*2)。いつか出会う本物のハッピーベルのために、今日も池辺さんはたくさんの人々を繋げ、宮崎を、日本を、飛び回り続けています。もし今後ハッピーベルが完成して、なにかの活動をして収益が出たならば、よい里親に出会うために使ってほしいと願いを込めて、熊本の赤ちゃんポストへ寄付をすると心に決めているのだそうです。

 

 

 

終わりに。

 

池辺さんをきっとバリバリのテキパキした女性だと思われた方が多いかもしれません。いえいえ、池辺さんはびっくりするくらいの「天然」な、妖精のような方です。そして自分の何もかもを隠さず、自分は何もできないからみなさん一緒にやりましょうと堂々と言える人です。「どうやら人には神様が与えられた役割があるように思うの。私もなにかお役に立てればと思ってきたけれど、何もできないのよね。まるでだるまみたいに。環境、こどもたち、食、なにもかも守らないと!と真っ赤になって思うけれど、手も足も出ない自分。でも私にはどうやら、人に夢を与えるというお役を与えられているようなの」と気づいたと言います。これが肩書きのない人生の答え、なのでしょうか。

 

今までは、肩書きや会社の名前、学歴が大事とされてきました。でも3.11で人は、何よりも大切なものは、尊いものは「命」だと気づいた人が多かったことと思います。お母さん、お父さん、目の前にある小さな命にじゅうぶんに向き合ってともに生きていきませんか。自分の住む場所を愛し、よき環境をつくっていきませんか。“自分たちだけが幸せならいい”ではなくて、生きているこの世界がよいものであるために、ともに手を繋ぎ合っていきませんか。肩書きに縛られずに自由に、感覚の赴くまま、人と人を繋ぎ続けながら生きる池辺さんが、教えてくれました。「命。授かる事は預かる事。それは伝える事…それが仕事」と。

(文責・MAO IKEDA)

 

 

*1 イトオテルミー:からだにぬくもりと刺激を与えることで、自然治癒力に働きかけ、病気の予防、疲労回復、健康増進を図る温熱刺激療法のこと(イトオテルミー親友会HPより)。

*2 この鐘は、今年の3.11、平和台公園で開かれた追悼のイベントでも使われました。命の鐘なのです。